Aruku's Blog

ようこそ。
物語と背景音楽の制作家・古峰歩のオフィシャルブログです。
スタジオ「FicTones」を拠点に、文章・音楽・ヴィジュアルを一貫して創作し、Aruku名義でも活動を展開。宇宙とのつながりを感じながら、創作の軌跡を記しています。

#1.  Let Go (2025/11/11)


ブログを始めることにしました。
「親愛なる読者の皆様へ」と言えるようになるまで、少し時間がかかるかもしれません。けれど、こうして文字を起こした向こう側に誰かがいる。その存在に、私は前もって感謝したいと思います。
これは突発的な思いつきではありません。内観を言葉にし、創作の日々を残したいと考えてきました。また、誰かの目に触れる可能性を持たせることで、共鳴してくれる人との縁を育てたいからです。私は誰なのか。この問いに答える義務があるのかもしれません。人間の言葉で答えるなら、私はデジタルが日常に溶け込んだ時代に生まれ、多様性と平和に包まれて育ちました。
内面については、別の語り方が必要です。前にエッセイにも書いたのですが、肩書きや職業で名乗った瞬間、自分ではなくなる感覚があるからです。
人生を振り返ると、一貫性がないように見えるかもしれません。
けれど私には揺るぎない信念の軸があり、それに忠実であることが私の一貫性です。
少し、私自身と社会の距離感についてお話しします。私は、しばしば周囲から「純粋」だとか「ピュア」だと指摘されます。私が思う純粋性とは、ある種の「子ども性」に近いものです。それは、分別なく自我を貫くようなものではありません。むしろ、私はそれらとは真逆の性質を持った人間だと理解していただくほうがよいかもしれません。重要なのことは二つ。一つは、社会の圧力の中でどれほど自由でいられるか。(【自由】という概念の探究は私の普遍的なテーマです。)もう一つは、自分について理解を深めることです。私は魂を持っています。幼い頃から目に見えない「何か」を受け取ってきました。理解されずに苦しんだ時期もありましたが、今ではそれが異質ではないと知っています。私は一度「わたし」を終えました。彼女を手放し、別れを告げました。
寂しさと感謝が入り混じり、涙が止まりませんでした。
けれど彼女は私に「生」を繋いでくれました。終わらせたのは私であり、始まりを咲かせたのは、彼女です。愛は分け合うからこそ愛であり、受け取ることも返すこともまた愛です。私はこれから出会う人々に愛を返し、受け取る準備ができています。そして、彼女にこう伝えたいのです。
「あなたは小さな火を守り、信念を情熱に変えてくれました。ありがとう。」
私は手放します。手放すことで、新たな光が入るスペースを自分の内に用意するために。関連エッセイはこちら: 内的展望台|内観をめぐる孤独と存在の倫理

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#2.  名前を探す(2025/11/28)


スタジオジブリ作品『ハウルの動く城』には印象的な場面があります。
ソフィーがハウルに問いかけます。
「あなたいったい、いくつ名前があるの?」
ハウルはこう答えます。
「自由に生きるのに要るだけ」
私はこの言葉に共鳴します。名前は人を固定化する力を持ちます。ハウルの意図は推し量れませんが、私自身は名前を変えることで自由に生きられるように感じてきました。何かを成し遂げるには名前は重要です。名前があることで賛同者や仲間、支援者に出会うことができます。しかし、出会った時に名乗ることをためらっていました。私はずっと自分の名前を探していたのです。過去には小説サイトで使ったペンネーム、公募に応募するたびに変えていた筆名など、いくつもの名前を持ち、手放してきました。自由に創作するために。何度も名前を試しては「違う」と感じてきた。そしてある時、私はひとつの答えを受け取りました。その名がずっと探していた名前だという保証はありません。ただ、私が「答え」だと信じたのです。あなたの名前は何でしょうか。もしかしたら、今答えられるもの以外に、別の名前があるのかもしれません。静かな場所で、自分の名前を心の中で呼んでみてください。その時、確信を持てますか。もし違和感があれば、まだ見ぬ名前があるのかもしれません。それがあなたにとってどれほど重要で、どのような意味を持つのかは、私にはわかりません。ただ、名前とは、唯一の「自分」を形作るものです。自分がしっくりくると思える名前を信じて、その名で自分を呼んでみてください。望めば、今日からその名を名乗っていいんです。社会的に登録された名だけが、その人を定義するわけではありません。人は数字ではありません。人口という数字はただの記号にすぎません。私もあなたも「数字」ではなく、名前があり、魂があり、肉体があって存在しています。問いがぐるぐる回ることは悪いことではありません。むしろ、そこからクリエイティブなエネルギーが生まれます。私は今日も宇宙と繋がりながら、この地球で作品をつくっています。ありがとうございます、と唇からこぼれました。上弦の月の夜に。それでは、また。

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#3.  過度な露出とSNSのこと(2025/12/1)


ニューヨークを拠点とするの現代アートアドバイザー、マリア・ブリトは「過度な露出が作品の価値を下げる可能性がある」と指摘し、アーティストに対して作品の見せ方を制御することを推奨しています。彼女はキュレーター・作家・起業家でもあり、アートを単なる物質的な価値として捉えるのではなく、ビジネスや人生を質的に高める手段として活用することを提唱しています。SNSの普及によってアートは民主化されましたが、その結果、驚きや感動といった体験は失われてしまったとブリトは述べています。新しい作品に触れ、それを素晴らしい、好きだと思った瞬間を想像してみてください。私たちは喜びや興奮を覚えます。これはドーパミンが快楽を誘発しているからです。SNSでは、この快楽のプロセスが驚くほど速いサイクルで繰り返されます。その結果、人々は知らぬ間に「快楽適応(hedonic adaptation)」の負の側面に飲み込まれてしまうとブリトは伝えています。快楽適応とは、最初は強い興奮を覚えても、繰り返すうちに慣れてしまい、感動が薄れていくことを指します。SNS時代におけるコンテンツ消費の速さは、アーティストや表現スタイルの多様性を排除し、可視化を妨げるのだといいます。より多くの「いいね」・シェア・コメントを受け取った、特定の作品やアーティストばかりが目に入るようになるからです。それがトレンドとなることもありますが、流行はすぐに入れ替わります。ブリトは自身のブログでこう述べています。
“Instead of experiencing art as a moment of discovery, we experience it as a constant stream of sameness.” - アートを発見の瞬間として経験するのではなく、私たちは、同一性の途切れることがない流れとして経験するのです。
一方で、美術館や展覧会に足を運ぶといった「行動を伴う感動体験」は依然として付加価値を持っています。しかし、日常に溶け込んだアートとの遭遇は、収益化・商業化へと傾きつつあります。ブリトは、こうした状況には複合的な問題があり、それぞれに向き合うべき課題があると指摘します。ただ、彼女は決して悲観しているわけではありません。「魔法の瞬間(moments of magic)」を発見することはできます。私は、彼女がアーティストに「過度な露出を制御する」よう勧めている点に注目したいと思います。見せすぎないことにはメリットがあります。ミステリアスで、もっと知りたいと思わせる「ワクワク」を引き出すからです。私自身にも似た体験があります。10代の頃、好きな歌手がいました。当時はSNSがなく、私は定期的に公式サイトを訪れて新しい作品を心待ちにしました。どんな人なのかをフォトブックや雑誌のインタビューから想像する時間は、とてもワクワクするものでした。音楽に関しても、ストリーミング配信はなく、一曲やアルバムを購入するためにお小遣いやお年玉を貯めました。その消費行動には確かな付加価値がありました。もちろん、ストリーミングやSNSに価値がないと言いたいわけではありません。ただ、ファンに「想像の余地」を多く与えることは、アーティスト自身にとってもワクワクすることなのです。多くを見せすぎないことは、まるで地図にない宝島を目指して冒険するような感覚に近いのかもしれません。創作活動やアーティスト活動でSNSを使っていないと、否定的に見られることもあります。確かに、プライベートではLINEやWhatsAppを連絡手段として使う程度です。しかし私はSNSを否定しているわけではありません。SNSを好悪しても、私にとって何も生み出すものはないのです。コンテンツには良い面と悪い面があり、それは開発者も利用者も理解しているでしょう。最後に、私の意見にあなたが同意できなくても構いません。私たちはそれぞれ異なる価値観や表現を尊重し合うことができます。何よりも、ここまで読んでくださったことに、私は喜びと感謝を抱いています。
それでは、また。
参考:Maria Brito, The Groove 217: When the Thrill Fades – The Problem with Overexposure in Art
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