#1.  創作と自己形成が不可分 (2025/11/11)


ブログを始めることにしました。
「親愛なる読者の皆様へ」と言えるようになるまで、少し時間がかかるかもしれません。けれど、こうして文字を起こした向こう側に誰かがいる。その存在に、私は前もって感謝したいと思います。
これは突発的な思いつきではありません。内観を言葉にし、創作の日々を残したいと考えてきました。また、誰かの目に触れる可能性を持たせることで、共鳴してくれる人との縁を育てたいからです。私は誰なのか。この問いに答える義務があるのかもしれません。人間の言葉で答えるなら、私はデジタルが日常に溶け込んだ時代に生まれ、多様性と平和に包まれて育ちました。
内面については、別の語り方が必要です。前にエッセイにも書いたのですが、肩書きや職業で名乗った瞬間、自分ではなくなる感覚があるからです。
人生を振り返ると、一貫性がないように見えるかもしれません。
けれど私には揺るぎない信念の軸があり、それに忠実であることが私の一貫性です。
少し、私自身と社会の距離感についてお話しします。私は、しばしば周囲から「純粋」だとか「ピュア」だと指摘されます。私が思う純粋性とは、ある種の「子ども性」に近いものです。それは、分別なく自我を貫くようなものではありません。むしろ、私はそれらとは真逆の性質を持った人間だと理解していただくほうがよいかもしれません。重要なことは二つ。
一つは、社会の圧力の中でどれほど自由でいられるか。(【自由】という概念の探究は私の普遍的なテーマです。)
もう一つは、自分について理解を深めることです。
私は自分という作品を創っています。それは、私にとって自由であるということであり、自己理解を深める唯一の手段でもあります。創作と自己形成が同じ線上にあるという前提で活動しています。文章、音楽、映像、デザイン。どの工程も外に委ねず、自分の手で統合しています。それは「自分を見せる」ためではなく、自分として創作するために必要なことだからです。宇宙・神話・哲学・祈りといったテーマは、私にとって装飾ではなく、思考の自然な延長です。創作は、私にとって表現であると同時に、自分の存在を確かめる行為でもあります。その過程を、作品という形で共有しています。私は魂を持っています。幼い頃から目に見えない「何か」を受け取ってきました。理解されずに苦しんだ時期もありましたが、今ではそれが異質ではないと知っています。それは、ときに私を社会から隠し、切り離しました。しかし同時に、私を守り、学び、成長するよう促し続けました。まだだ、まだだ、まだだ——。過去ずっと、そんな声が頭に響きつづけ、そして今、私が明確に受け取っている声があります。私は一度「わたし」を終えました。彼女を手放し、別れを告げました。
寂しさと感謝が入り混じり、涙が止まりませんでした。
彼女は私に「生」を繋いでくれました。終わらせたのは私であり、始まりを咲かせたのは、彼女です。愛は分け合うからこそ愛であり、受け取ることも返すこともまた愛です。私はこれから出会う人々に愛を返し、受け取る準備ができています。そして、彼女にこう伝えたいのです。「あなたは小さな火を守り、信念を情熱に変えてくれました。ありがとう。」私は手放します。手放すことで、新たな光が入るスペースを自分の内に用意するために。関連エッセイはこちら: 内的展望台|内観をめぐる孤独と存在の倫理

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#2.  名前を探す(2025/11/28)


スタジオジブリ作品『ハウルの動く城』には印象的な場面があります。
ソフィーがハウルに問いかけます。
「あなたいったい、いくつ名前があるの?」
ハウルはこう答えます。
「自由に生きるのに要るだけ」
私はこの言葉に共鳴します。名前は人を固定化する力を持ちます。ハウルの意図は推し量れませんが、私自身は名前を変えることで自由に生きられるように感じてきました。何かを成し遂げるには名前は重要です。名前があることで賛同者や仲間、支援者に出会うことができます。しかし、出会った時に名乗ることをためらっていました。私はずっと自分の名前を探していたのです。過去には小説サイトで使ったペンネーム、公募に応募するたびに変えていた筆名など、いくつもの名前を持ち、手放してきました。自由に創作するために。何度も名前を試しては「違う」と感じてきた。そしてある時、私はひとつの答えを受け取りました。その名がずっと探していた名前だという保証はありません。ただ、私が「答え」だと信じたのです。あなたの名前は何でしょうか。もしかしたら、今答えられるもの以外に、別の名前があるのかもしれません。静かな場所で、自分の名前を心の中で呼んでみてください。その時、確信を持てますか。もし違和感があれば、まだ見ぬ名前があるのかもしれません。それがあなたにとってどれほど重要で、どのような意味を持つのかは、私にはわかりません。ただ、名前とは、唯一の「自分」を形作るものです。自分がしっくりくると思える名前を信じて、その名で自分を呼んでみてください。望めば、今日からその名を名乗っていいんです。社会的に登録された名だけが、その人を定義するわけではありません。人は数字ではありません。人口という数字はただの記号にすぎません。私もあなたも「数字」ではなく、名前があり、魂があり、肉体があって存在しています。問いがぐるぐる回ることは悪いことではありません。むしろ、そこからクリエイティブなエネルギーが生まれます。私は今日も宇宙と繋がりながら、この地球で作品をつくっています。ありがとうございます、と唇からこぼれました。上弦の月の夜に。それでは、また。

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#3.  過度な露出とSNSのこと(2025/12/1)


ニューヨークを拠点とするの現代アートアドバイザー、マリア・ブリトは「過度な露出が作品の価値を下げる可能性がある」と指摘し、アーティストに対して作品の見せ方を制御することを推奨しています。彼女はキュレーター・作家・起業家でもあり、アートを単なる物質的な価値として捉えるのではなく、ビジネスや人生を質的に高める手段として活用することを提唱しています。SNSの普及によってアートは民主化されましたが、その結果、驚きや感動といった体験は失われてしまったとブリトは述べています。新しい作品に触れ、それを素晴らしい、好きだと思った瞬間を想像してみてください。私たちは喜びや興奮を覚えます。これはドーパミンが快楽を誘発しているからです。SNSでは、この快楽のプロセスが驚くほど速いサイクルで繰り返されます。その結果、人々は知らぬ間に「快楽適応(hedonic adaptation)」の負の側面に飲み込まれてしまうとブリトは伝えています。快楽適応とは、最初は強い興奮を覚えても、繰り返すうちに慣れてしまい、感動が薄れていくことを指します。SNS時代におけるコンテンツ消費の速さは、アーティストや表現スタイルの多様性を排除し、可視化を妨げるのだといいます。より多くの「いいね」・シェア・コメントを受け取った、特定の作品やアーティストばかりが目に入るようになるからです。それがトレンドとなることもありますが、流行はすぐに入れ替わります。ブリトは自身のブログでこう述べています。
“Instead of experiencing art as a moment of discovery, we experience it as a constant stream of sameness.” - アートを発見の瞬間として経験するのではなく、私たちは、同一性の途切れることがない流れとして経験するのです。
一方で、美術館や展覧会に足を運ぶといった「行動を伴う感動体験」は依然として付加価値を持っています。しかし、日常に溶け込んだアートとの遭遇は、収益化・商業化へと傾きつつあります。ブリトは、こうした状況には複合的な問題があり、それぞれに向き合うべき課題があると指摘します。ただ、彼女は決して悲観しているわけではありません。「魔法の瞬間(moments of magic)」を発見することはできます。私は、彼女がアーティストに「過度な露出を制御する」よう勧めている点に注目したいと思います。見せすぎないことにはメリットがあります。ミステリアスで、もっと知りたいと思わせる「ワクワク」を引き出すからです。私自身にも似た体験があります。10代の頃、好きな歌手がいました。当時はSNSがなく、私は定期的に公式サイトを訪れて新しい作品を心待ちにしました。どんな人なのかをフォトブックや雑誌のインタビューから想像する時間は、とてもワクワクするものでした。音楽に関しても、ストリーミング配信はなく、一曲やアルバムを購入するためにお小遣いやお年玉を貯めました。その消費行動には確かな付加価値がありました。もちろん、ストリーミングやSNSに価値がないと言いたいわけではありません。ただ、ファンに「想像の余地」を多く与えることは、アーティスト自身にとってもワクワクすることなのです。多くを見せすぎないことは、まるで地図にない宝島を目指して冒険するような感覚に近いのかもしれません。創作活動やアーティスト活動でSNSを使っていないと、否定的に見られることもあります。確かに、プライベートではLINEやWhatsAppを連絡手段として使う程度です。しかし私はSNSを否定しているわけではありません。SNSを好悪しても、私にとって何も生み出すものはないのです。コンテンツには良い面と悪い面があり、それは開発者も利用者も理解しているでしょう。最後に、私の意見にあなたが同意できなくても構いません。私たちはそれぞれ異なる価値観や表現を尊重し合うことができます。何よりも、ここまで読んでくださったことに、私は喜びと感謝を抱いています。
それでは、また。
参考:Maria Brito, The Groove 217: When the Thrill Fades – The Problem with Overexposure in Art
記事はこちら

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#4.  AIクローラーと表現の行方(2025/12/5)


私は、自分の手でアーティストとしての公式サイトを立ち上げました。専門的な知識はありませんが、今の自分にできる限りを試みています。サイトの公開・運営も、その挑戦の一部です。サイト公開後、私は「AIクローラー」の存在を知りました。「検索クローラー(GoogleやBingなどの検索エンジン)」と同じようにウェブを巡回しますが、目的は検索結果の表示ではなく、対話型AIの学習や回答生成にあります。ChatGPT、Gemini、Anthropic、Perplexity――これらは現代の情報環境を象徴する名です。著作権や知的財産権への懸念が社会で語られるなか、しだいに私自身も不安を抱き始めました。公式サイトは作品の延長であり、私の表現そのものです。そこで調べを重ね、AIによる情報収集を抑制する設定を実行しました。セキュリティを強化したその瞬間、私のサイトはAIの視界から遠ざかったように感じました(ただし完全に防げるわけではありません)。2025年現在、検索と対話型AIは併存し、情報探索の入り口が多様化しています。AIのアクセスを完全に遮断することは、ネット空間での可視性を狭める選択でもあります。守るか、広めるか――この問いは、創作者にとって避けられないものです。ただ、問いは単純ではありません。守ることも広めることも、創作に必要です。倫理や技術が変化するなかで、両立の方法は増えていくでしょう。現在、私の管理するサイトは、一部のAIクローラーを制御し、アクセスを許可しています。今後、完全ブロックやハイブリッド型へ切り替える可能性もあります。結局、変化に柔軟であること。信念を軸に自ら決めること。それが最後に残る自由だと思います。どこまで自分を見せるかは、自分の意志で選ぶしかありません。AIは未来を形づくるための手段にすぎません。進む方向を決める主導権は人間の側にあります。有限を生きるからこそ、生は光を増します。死を背負う私たちは、本来、誰もが自ら光を放つ存在なのです。今年最後の満月に。お読みいただき、ありがとうございます。それでは。補足:ここで述べたことはあくまで私の体験に基づくものであり、技術的な詳細は専門家の解説に委ねます。

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#5.  書くべき世界へ還る(2025/12/20)


数年間、純文学・大衆文学・青春小説などをさまざまな文芸賞に応募し続けてきました。題材は社会的問題が中心で、メンタルヘルスに偏ったものが多かった。自傷行為、摂食障害、ゲーム依存症、起立性調節障害で不登校ぎみの女子中高生──。一貫して、15歳から18歳の日本人少女を主人公にしてきたのは、その時代が私にとって特別な意味を持つ時期であり、またその年代を生きる彼女たちに寄り添いたいという動機があったからです。しかしあるとき、公募に対する結果や成果に囚われて、物語創出のプロセスを楽しめなくなっているという現状に気がつきました。創作の根源的な喜びが、評価という外部基準に静かに侵食されつつありました。そこで、一度筆を置くことにしました。本当に書きたいこと、世に出したいものが何であるのかを、自分と対話しながら見つめ直す時間が必要でした。対話を重ねるうちに、私はある事実に気づきました。自分が描きたい世界は、既存のジャンルにきれいに収まるものではないということです。神話的な象徴がある物語構造、哲学的な問い、倫理、それらが自然に共存する場所を探すと、もっとも広義的に当てはまるのはファンタジーでした。それでも心の奥では、別の声が囁きます。タイトル(受賞歴)がないと作品を目に留めてもらえない。新人賞やネットで多くの目に触れ話題になることが先だ。これは、長く“公募勢”として生きてきた私の習慣の声でした。同時に、より強い声が頭の中に響きました。本当に書きたいものに集中せよ、と。創作の本質に立ち返るよう促す声をずっと受け取っていました。応募することが創作の一部であるかのような感覚は、長年の習慣として染みついていました。それでも自分を変えたくて、一区切りとして純文学を一作書き上げました。その作品が文学界新人賞の二次通過になったとき、私は再び揺れました。公募へ挑戦し続けるべきなのか──もう一度、静かな頭で考え、自己対話する必要がありました。まず、創作的な直感があります。魂の向かう先がファンタジーであるという確かな感覚は、創作者にとって最も信頼すべき羅針盤です。この直感は、他のどんな理由よりも強く、揺るぎないものでした。次に、これまでの応募歴を振り返ると、純文学を最も多く書いてきましたが、自分の創作傾向との間に、どこか噛み合わない部分があったことも否めません。挑戦を重ねても結果に結びつきにくかったという事実は、ジャンルとの相性を静かに示唆しているように思えました。さらに、私が描きたい世界観──神話、哲学、音楽、象徴、倫理──は、純文学よりもファンタジーのほうがはるかに自由に展開できる領域にあります。表現の可能性という観点から見ても、ファンタジーのほうが私の創作に適していると感じました。(文芸賞の選考には主観や偶然の要素がつきまといます。落選という結果が、必ずしも不適合を意味するわけではありません。そこには運や巡り合わせといった不可視の要因も含まれています。)自己対話の末に、次のような結論に至りました。
創作者にとって、最も信頼すべき羅針盤を握りなおすのです。
自分にしか見えない世界を言葉にすることこそが、私の使命です。
公募での落選は、小説家になるために書いていた時期の痕跡であり、今の私はすでに別の段階にいます。応募するかどうかは、その作品がその器にふさわしいかどうかで判断すればよく、応募すること自体が目的になってはいけないのです。
現在(いま)、私は新しいファンタジー作品の構想を抱えています。舞台は現代でも地球でもありません。そこには、神話的な構造、哲学的な問い、音楽的な象徴が息づいています。それを描くことが、私の創作の本質であり、使命だと感じています。今年最後の新月に、決意の記録として残しておきたいと思います。

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#6.  外側の仕組みと内側の哲学(2025/12/26)


ポッドキャストを配信していると、
「知らないサイトに自分の番組が載っている」という経験をすることがあります。これは決して珍しいことではなく、RSSという仕組みが「開かれたデータ」として外部からのアクセスと転載を可能にしているからです。
RSSを公開した瞬間、それはインターネット上で誰でもアクセスできる情報になります。サイトは、この公開RSSを自動でクロールし、番組情報を掲載します。これは違法ではなく、むしろ一般的な仕組みです。
望まない掲載と、発信したい想いとの間に葛藤が生じます。Apple PodcastsやSpotifyは、公開RSSを読み取って番組を更新します。つまり、RSSを非公開にすると主要プラットフォームに配信できなくなります。しかし公開RSSを使う以上、第三者サイトに拾われる可能性はゼロにはできません。とはいえ、これは「何もできない」という意味ではありません。仕組みとして避けられない部分がある一方で、創作者として守れる領域も確かに存在します。制作者(権利者)には、削除を求める権利があります。RSSを読まれること自体は仕組み上、避けられません。ですが、掲載された内容がこちらの意図を超えている場合、アーティストとして「削除してほしい」と伝えるのは当然の権利です。アートワークや説明文は著作物です。そして権利主張は、「戦い」ではなく「調和を図る」ことです。外側の仕組み(ここでいえばRSS)と、内側の創作哲学。そのバランスを考えることは、私にとって、作品を生み、発信することとほとんど同義です。私にとって重要なことは、どこまでが自分の管理下で、どこからが仕組みとしてコントロールの外にあるのかを認識することです。自分で決められること(何を、どの名前で、どこまで公開するか)、決められないこと(公開情報が検出される、第三者に拾われる、他者がどう理解するか)——このように境界線を明確にしておくことで少し安心できます。慎重に、冷静に、ただ、いつでも世界は開いていたい。
視野を狭めず、可能性を無限に持つ心がけをする。
俯瞰しつつ、恐れない。いいえ、恐れる必要はありません。創作が自分の使命だと信じているからです。
冴え渡る夜空、煌々とそこにいる月に、守られているのを感じました。もうすぐ、夜明けです。夜明け前が一番暗いってね。

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#7.  感情のバランス(2026/1/11)


ポジティブな感情もネガティブな感情も、どちらも人の内側に静かに息づいているものです。この二つのバランスを意識するようになってから、私は少しずつ、自分の感情との付き合い方が変わっていくのを実感してきました。けれど、10代の頃はまったく違いました。
ネガティブな感情を抱えたまま、どう扱えばいいのか分からず、「こんな気持ちはいけないものだ」と決めつけては、自分を責め続けていた時期があります。あの頃は、本当に苦しかった。
いろんな道を歩き、いろんな経験を重ねて、今では潜在意識の深いところで“本来の自分”を取り戻したような感覚があります。だからこそ、ネガティブな感情との向き合い方を大切にしたいと思うのです。知人から「落ち込み名人」と呼ばれるほど、私はよく落ち込みます。でも、気持ちの揺れをどう扱うかで、世界は大きく変わるし、自分で変えていくこともできる。悪い時もあれば、いい時もある。自分の気持ちを丁寧に扱ってあげることで、停滞した気分や悪い循環から抜け出せるのだと学びました。ネガティブな感情は厄介に見えるけれど、ただ心を傷つけるためのものではありません。むしろ、大切なものを抱えているからこそ生まれる感情なのかもしれません。
恐れは、頑張っている証。
恥ずかしさは、誠実に向き合っている証拠。
後悔は、自分が前に進んだことを知らせてくれるサイン。
怒りは、境界線を守ろうとする声かもしれない。
悲しみは、喪失を受け止めるための時間を求める気配なのかもしれません。
どの感情も、ただの「ネガティブ」ではなく、何かを伝えようとしているメッセンジャーのような存在です。
とはいえ、感情に向き合おうとすると、心が飲み込まれそうになる瞬間もあります。そんなときは、無理に踏ん張らなくていい。逃げてもいいし、立ち止まってもいい。まずは、自分を守ることが大切です。休む。眠る。好きなことに触れる。外の情報を少し閉じて、風や光の色を感じる。五感が戻ってくるまで、ただ自分をそっとしておく。そして、ふと気づくはずです。「ああ、自分はあの時、本当に必死だったんだ」と。ネガティブな感情との向き合い方は、人の数だけあります。どれが正解ということもありません。誰かに話すことで、気持ちが少し軽くなることもあります。人に頼ることは、弱さとは関係ありません。ただ、「頼る」という言葉に抵抗を感じる人もいるでしょう。
実際、もし10代の頃の私が目の前にいたら、きっとこう言うんです。
「頼れる人がいないんだよ。そんなに甘くないよ、、、!」
ええ、確かにそう。今の私は、その気持ちを否定しません。頼れる人がいないと感じることも、誰にも言えないと思うことも、それ自体がつらさの一部です。
2026年になりました。しょっぱなタイトルが、暗。まいっか(笑)自分に正直でいること。それが自分を守ってくれます。時代は変わりました。新しい風が吹いています。自分を後回しにすると、その風は向かい風になる。でも、自分の望むことを素直にやってみると、追い風になって背中を押してくれます。軽やかに、楽しく。2026年を駆け抜けたいです。最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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#8.  スターシードを説明する試論(2026/1/14)


私は科学的な視点・思考を大切にしてきました。同時に、旅や水の流れに関する夢、女性や少女(少年を含む)を救うことへの強い動機づけ、さらにライトランゲージを通してアンドロメダとの関連性を意識する場面が、私の内側に継続的に存在してきました。これら二つの世界は、しばしば相容れないように見えます。科学者はスターシードを受け入れないだろうという思いと、自分の体験が似非科学とみなされるのではないかという不安の間で葛藤し続けてきました。両者の整合性について、言語化を試みてきました。科学は、観測・測定・再現が可能な現象を対象とするため、魂の起源や宇宙種族との精神的連関、ライトランゲージ、使命感といった主観的体験を実証的に扱うことはできません。この点において、科学がスターシードを事実として肯定することは困難なのです。ただし、この困難は科学の方法論的制約に由来するものであり、主観的体験そのものの価値を否定するものではない、という立場を私はとります。「否定」というより、科学の適用範囲に関わる問題と考えられるからです。一方で、科学は主観的体験の価値を排除するものではありません。心理学では、夢、象徴、スピリチュアルな感覚のように測定が難しい現象であっても、人間の心の現象として存在すると扱われます。したがって、私が経験してきた夢や使命感、アンドロメダとのつながりの感覚も、主観的現象として存在していると理解されるべきです。科学はこれらの現象を、むしろ人間理解の一部として排除するべきではないと私は考えます。科学的態度を維持しつつスターシード概念を肯定的に解釈するためには、この概念を象徴的枠組み、あるいはアーキタイプとして捉える視点が有効だと考えています。例えば、アンドロメダは自由や創造、境界を越える意識の象徴として理解できますし、プレアデスは愛や調和、シリウスは叡智や精神性といったように、宇宙種族は人間の内的世界を読み解くための象徴的な言語として機能しているように思われます。このような捉え方であれば、科学的な視点と衝突することはありません。私が体験してきた夢、女性や少女を救う使命、ライトランゲージ、アンドロメダとのつながりは、アンドロメダに関連づけられる象徴性と調和しているように思います。つまり、私の体験は象徴体系としてのスターシードの枠組みの中で意味を持っていたと考えられます。目下の結論として、科学がスターシードを事実として肯定することはありませんが、象徴体系として価値を認めることは可能です。私のアンドロメダとしての体験も、その象徴的枠組みの中で一定の意味を有していると思います。科学とスピリチュアルは対立的な関係にあるのではなく、外的世界を説明するための言語体系と内的世界を説明する言語体系として共存し得るものです。少なくとも私にとっては、この両者を戦わせない立場に立つことが、自身の精神と存在意義を守ることにもつながっています。最後に、私と同じような葛藤によって生きづらさを感じてきた、あるいは感じている方々に。あなた方は輝きそのものであり、あなた方の眼差しは無力ではなく尊く、常に抱え込む苦悩は愛に溢れたものであることを讃えます。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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#9.  真理を渡り歩く(2026/1/22)


物事をできるだけ多面的に捉えたいと思っています。
ピカソの絵には、女性の顔をさまざまな方向から見た視点を一つの平面に重ねた作品があります。あれは、ある意味で “宇宙的なエネルギー” の表現かもしれません。
私たちは、一つの視座に立った瞬間、同時に別の視座に立つことはできません。ただし、1秒後には別の視点に移ることができる。つまり、同時に複数の視点を持つことはできないけれど、視点が無数に存在することを俯瞰的に理解することはできるのです。ピカソは、その “多視点性” を絵にしたのかもしれません。(あくまで私の感想です)
アンドロメダのガイドは、私に「俯瞰でいなさい」とよく伝えてきます。それは、達観して上から見ろという意味ではなく、世界には無数の分岐があり、真理は一つではないということ。絶対的な視点ではなく、多面的な視点を保持するようにと伝えてきます。
特にこのメッセージは、迷いや困難に遭遇したときに強く降りてきます。どうしようもない未来への不安、受け入れがたい現実を突きつけられたとき。そんなとき、アンドロメダは安心と愛を持ってこう続けます。
「大丈夫です」答えや結果は瞬間的にはひとつかもしれませんが、それは1秒後に変えることのできるものです。その力を人間は持っているし、“できると思うことは、できる” のです。
このような多面的な視点は、アンドロメダの存在にとってはごく自然で当たり前の価値観です。アンドロメダのエネルギーは、流れ続ける力、変化と変容、自由、余白といった性質を持っています。多次元意識(multidimensional awareness)を心がけるよう促してくれます。
同時に、アンドロメダからは「真理」のような固定的な概念が降りてくることはあまりありません。私のガイド曰く、「真理」はそれを語る者の視座によって異なるからです。
その意味で真理は一つではありませんが、少なくとも「○○の真理」と口にした瞬間、私たちは固定された椅子に着席することになるのです。
スピリチュアルジャーニーにおいて(シンプルに「旅」と解釈していただいて構いません)、次の椅子に座りたい冒険心や探究心は止まりません。そうなると、真理を渡り歩く存在として、「真理」と声にする必要性が薄まっていくのです。
私は「宇宙の真理」という言葉を避けたいわけではありません。ただ、その言葉を使う人がどのような意味で「真理」と語っているのか、それを知りたいだけなのです。
それを知ることも喜びであり、楽しいことです。そして私たちは、異なる真理を見せ合い、その多様な風景に調和を見出すことができる存在です。
お読みいただきありがとうございました。

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