ニューヨークを拠点とするの現代アートアドバイザー、マリア・ブリトは「過度な露出が作品の価値を下げる可能性がある」と指摘し、アーティストに対して作品の見せ方を制御することを推奨しています。彼女はキュレーター・作家・起業家でもあり、アートを単なる物質的な価値として捉えるのではなく、ビジネスや人生を質的に高める手段として活用することを提唱しています。SNSの普及によってアートは民主化されましたが、その結果、驚きや感動といった体験は失われてしまったとブリトは述べています。新しい作品に触れ、それを素晴らしい、好きだと思った瞬間を想像してみてください。私たちは喜びや興奮を覚えます。これはドーパミンが快楽を誘発しているからです。SNSでは、この快楽のプロセスが驚くほど速いサイクルで繰り返されます。その結果、人々は知らぬ間に「快楽適応(hedonic adaptation)」の負の側面に飲み込まれてしまうとブリトは伝えています。快楽適応とは、最初は強い興奮を覚えても、繰り返すうちに慣れてしまい、感動が薄れていくことを指します。SNS時代におけるコンテンツ消費の速さは、アーティストや表現スタイルの多様性を排除し、可視化を妨げるのだといいます。より多くの「いいね」・シェア・コメントを受け取った、特定の作品やアーティストばかりが目に入るようになるからです。それがトレンドとなることもありますが、流行はすぐに入れ替わります。ブリトは自身のブログでこう述べています。 “Instead of experiencing art as a moment of discovery, we experience it as a constant stream of sameness.” - アートを発見の瞬間として経験するのではなく、私たちは、同一性の途切れることがない流れとして経験するのです。一方で、美術館や展覧会に足を運ぶといった「行動を伴う感動体験」は依然として付加価値を持っています。しかし、日常に溶け込んだアートとの遭遇は、収益化・商業化へと傾きつつあります。ブリトは、こうした状況には複合的な問題があり、それぞれに向き合うべき課題があると指摘します。ただ、彼女は決して悲観しているわけではありません。「魔法の瞬間(moments of magic)」を発見することはできます。私は、彼女がアーティストに「過度な露出を制御する」よう勧めている点に注目したいと思います。見せすぎないことにはメリットがあります。ミステリアスで、もっと知りたいと思わせる「ワクワク」を引き出すからです。私自身にも似た体験があります。10代の頃、好きな歌手がいました。当時はSNSがなく、私は定期的に公式サイトを訪れて新しい作品を心待ちにしました。どんな人なのかをフォトブックや雑誌のインタビューから想像する時間は、とてもワクワクするものでした。音楽に関しても、ストリーミング配信はなく、一曲やアルバムを購入するためにお小遣いやお年玉を貯めました。その消費行動には確かな付加価値がありました。もちろん、ストリーミングやSNSに価値がないと言いたいわけではありません。ただ、ファンに「想像の余地」を多く与えることは、アーティスト自身にとってもワクワクすることなのです。多くを見せすぎないことは、まるで地図にない宝島を目指して冒険するような感覚に近いのかもしれません。創作活動やアーティスト活動でSNSを使っていないと、否定的に見られることもあります。確かに、プライベートではLINEやWhatsAppを連絡手段として使う程度です。しかし私はSNSを否定しているわけではありません。SNSを好悪しても、私にとって何も生み出すものはないのです。コンテンツには良い面と悪い面があり、それは開発者も利用者も理解しているでしょう。最後に、私の意見にあなたが同意できなくても構いません。私たちはそれぞれ異なる価値観や表現を尊重し合うことができます。何よりも、ここまで読んでくださったことに、私は喜びと感謝を抱いています。 それでは、また。参考:Maria Brito, The Groove 217: When the Thrill Fades – The Problem with Overexposure in Art 記事はこちら